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中韓を知り過ぎた男・中韓の本性を暴露

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http://kkmyo.blog70.fc2.com/

昨年から続いている韓国シリーズを今年も、少し続けたいと思います。

昨年のブログでは936年高麗王朝の統一から一気に李氏朝鮮まで飛んで
しまったが、470年間続いた高麗王朝時代をもう少し詳しく検証してみます。

993年ころ中国で力をつけた契丹族の帝国・遼が度々高麗に侵入します。そ
の後、女真族の金が遼を滅ぼします。1107年高麗は東北部の辺境で今度は
女真族の攻撃をうけます。ちなみに日本の「源氏物語」の完成は1005年で
す。そして日本では1192年鎌倉幕府が成立して幸いにも初の武家政権が
出来ました。

なぜ武家政権のことを幸いにもと書いたか、それは82年後日本はこれまで経
験したことのない大規模な歴史上始まって以来の未曾有の外国からの侵略を
経験したのです。それが蒙古軍来襲の「文永の役」1274年と1281年の「弘
安の役」です。

ここで凶暴な蒙古軍について記述する必要があります。韓国側の資料によれ
ば「高麗王朝の正規軍であった「三別抄」はモンゴル軍に対して無条件降伏
を拒んで徹底抗戦することを表明し、モンゴルとの戦闘を三年間続けた。
その結果モンゴル軍は日本征服をおよそ7年にわたって延期せざるをえな
かった。この間に、日本軍は北九州沿岸を防御する時間的な余裕を与えられ
た。もしも、1回目の元弘が7年前に行われていたら、日本はモンゴルの
支配の「元」に置かれ、今日の日本もなかった」

この韓国側の記述は全く辻褄が合わない。日本への1回目の蒙古軍来襲は
1274年、その7年前なら1267年ということになる。蒙古が中国を統一し
て元朝を樹立したのは1271年で、1273年に高麗は蒙古軍に服従を申し出
ています。おそらく2回目の弘安の役1281年と勘違いしています。

日本側の資料によれば「蒙古軍の恐るべき残忍さに恐れをなした高麗は、戦
意を喪失して、武器を捨て、いち早く服従を願い出た」と書かれています。

韓国側にしたら蒙古軍と勇敢に3年間も戦ったことにしないと自尊心が保て
無いだろうが、蒙古軍の強さと恐ろしさを知っていればこのような記述は出
来ない。

当時の中国は北方の騎馬民族である「金」と唐の後を支配した「宋」で二分
されていました。「宋」は「金」の攻撃に耐えかねて、首都を放棄して南の
南京に都を移しています。しかしその残忍で強大な「金」でも、ただ一度の
戦いで蒙古軍に敗れて、徹底的な略奪と殺りくの嵐の中で滅んでいます。

チンギス・ハーンの後を継いだフビライ・ハンは南へ逃げ込んだ「宋」を
容赦の無い攻撃を再開,「宋」の首都南京を完膚なきまでに破壊し、350年
続いた宋の王朝を滅亡させています。

ここに至り,二つの強大な国をいとも簡単に滅ぼしたフビライは、中国全土
の都市を完全に廃墟ならしめ、人民は皆殺しにされ、兵士らによる略奪行為
は、いつ果てることもなく続いた。

このような恐ろしい残忍な蒙古軍を横目で見ていた朝鮮族(高麗)が「蒙古
軍に対して無条件降伏を拒んで徹底抗戦することを表明し、蒙古軍との激闘
を三年間続けた」などの記述は疑わしい、日本側の資料にあるように「武器
を捨て、いち早く服属を願い出た」のほうが真実味があります。

もし蒙古軍と戦っていたら朝鮮族は完全に消滅していた、むしろいち早く
属国として恭順したのは賢明だったと言えます。
高麗の名誉のために蒙古軍の恐るべき残酷さとその強さを列記してみます。

広大な中国大陸を征服した蒙古軍フビライは、中国全土の都市を完全に廃墟
ならしめ、人民は皆殺しにして、その広大な土地すべてを空っぽにして踏み
鳴らし、草原化して、家畜を放牧する計画でしたが、部下の進言で道半ばで
思い留まり、南方の国々に侵略の矛先を向けました。

そして怒涛のごとく中東に侵入して、虐殺と略奪を欲しいままにしてヨーロ
ッパに迫った。蒙古軍の通った後は、血祭りにあげられて廃墟と化した無人
の荒野と累々と並ぶ屍の山々だけが残された。

いったん矛先を向けられると最後、都市は壊滅し、住民はひとり残らず恐ろ
しい方法で惨殺された。記録によれば、わずか4つの都市を陥落するごとに
5百万の人間が殺されたと言われています。

しかもその殺し方は、実に残忍なもので、面白半分に矢で射られ、生皮をは
がされ、内臓を引き出され、特に女性に対しては陵辱された挙句に、虫けら
のように殺された。とても筆舌に尽くせない残忍な方法で殺されたと記録
されています。

この残忍な蒙古軍の資料を見たとき、私は支那事変での中国軍のやり方に
そっくりなのに驚かされます。「中国軍は略奪と虐殺を行う野党集団で、
中国軍が通った地は略奪や強姦だけでなく、日本軍に追いかけられるのを
防ぐために道路や橋,灌漑施設、堤防を次々爆破しました。そのために4千
の村が水没し、被害者が600万人以上でました。

蒙古軍も後ろから追いかけられるのを防ぐために住民を皆殺しにしましたが、
中国軍も日本軍の進撃の道をはばもうと全ての道路と自然を次々に破壊して
いきました。支那事変での死者の多くは中国軍隊が中国人を殺したものでし
た。

話は少し横道にそれましたが支那事変における戦闘は大抵の場合、日本軍が
攻めると中国軍が撤退という形で進みました。日本軍は堤防決壊の直後、堤
防の修復作業を行っただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を必死
になって行い、中国住民の救済、治安維持,戦災復興などに取り組みました。

中国民衆は軍隊を野党集団に過ぎないと思っていたが、日本軍の統率が取れ、
略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを彼らは初めて見たのです。
中国人民の本当の敵は、日本軍ではなく、中国軍だったのです。

つまり私が言いたいことは現代中国人はあの残虐なモンゴル人の子孫だと
いうことです。蒙古軍に血祭りに上げられ壊滅した「宋」で生き残った人々
も「漢人」ではありません。中国人が常に強調する「漢民族」などはすでに
紀元2世紀で地球上から姿を消しています。

話は、だんだん横道にそれますが、中国の歴史が朝鮮と連動しているために、
蒙古に支配される前の中国大陸の歴史を少しお勉強しましよう。

漢民族を絶滅させたのは三国時代です。隋の文帝が中国再統一するまで中国
大陸の混乱は400年も続きました。その結果、戦乱のために農業が出来なく
て、深刻な食料不足になり、中国人の大部分は餓死して、当時の中国の総人
口は、5百万人足らずになってしまったという記録が残されています。

この空白を埋めたのが北方の騎馬民族です。この結果、中国の住民はそっく
り騎馬民族の子孫に入れ替わってしまった。その後、楊堅によって統一され
たのが「隋」(589年−618年)で煬帝の代に朝鮮半島に遠征、大運河建設
によって、国力が低下、李淵が「唐朝」(618年−907年)を建てて帝位に
つきます。

朝鮮半島では新羅が「唐」の軍隊を引き入れて、不意打ちによって高句麗と
百済を滅ぼします。自ら唐の臣下に成り下がる事によって、朝鮮半島を支配
した新羅は9世紀に入ると、権力が弱体化してついに936年高麗朝と交代し
ます。

中国では「唐」の後、「宋」「金」と続き、ついに凶暴なモンゴルが中国全
土を征服して1271年「元朝」を樹立します。こうして、文明世界の大部分
を征服したモンゴルは、海を隔てた極東の国、日本も支配せんものと使者を
送ってきました。


(この続きは次回にて)



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