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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
令和元年(2019)10月3日(木曜日)
通算第6214号
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香港警察はなぜ拳銃を所持していたのか?
しかし中国なら捕まったら最後、拷問、注射、最悪の人生が待っている
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風向きがまた変わった。
高校生への銃撃抗議、批判の標的は警察だった。10月2日夜、抗議の群れは中国系企業へと戦術目標が変更となった。中国銀行、スターバックス等の店舗破壊、ガラスへスプ令の落書き等、中国への代替標的へ抗議ターゲットが拡がった。
10月2日、午前から夕方にかけて、香港の各所では拳銃で撃たれた高校生の無事を祈る集会や、警察の過剰弾圧に抗議する集会、シット・イン、人間の鎖が開催された。
ビジネスマンにとって束の間の昼休み、1230に突如、SNSで集会が呼びかけられると香港政庁に近いチャーター・ガーデンに、数百人のビジネスマンが集まり、警察の過剰防衛に抗議した。当該高校前、教会でも祈祷集会が開かれた。
狙撃され手術を受けた学生の所属する高等学校は授業ボイコットに突入し、座り込みの集会が開催され、学校長も、抗議集会を黙認した。
しかし、なぜ香港警察は拳銃を所持していたのか?
1967年から1970年へかけての日本の学生運動。羽田の佐藤法首相の訪ベトナム阻止行動は暴徒化し、学生が機動隊に投石し、コンクリートの破片を投げつけ、竹槍、鉄パイプなどで武闘を展開した。機動隊は「専守防衛」に徹し、多くの負傷者はむしろ機動隊側だった。筆者はカメラ片手に、石がびゅんびゅんと飛んでくるため、電柱によじ登った難を避け、撮影をつづけた。
機動隊は辛抱強く、指揮官が指令を出すまで動かず、もちろん、警棒のほかに防御器具は持っていない。佐世保闘争でもおなじだった。
▲日本の機動隊は拳銃を所持しておらず、対応も優しい
全学連や三派の武力を前に、機動隊のほうは楯があるだけで、事実上、無防備に近いのは何故か、不思議に思った。その後、成田で多くの機動隊員が犠牲になった。左派の強い日本のメディア。
学生を「暴徒」と書いた新聞はすくなかった。「暴徒化」という表現で、学生を甘やかせた。
香港の「暴動」をみていると、「香港警察はなぜあれほど凶暴なのか?」という疑念が湧くだろう。
しかし共産革命の実態とは村々を襲撃し、地主や村長を人民裁判にかけて家族もろとも銃殺し、財産を奪うという凶暴さを附帯し、社会構造の転覆が基本であり、敵対する勢力は九類にいたるまで抹殺した。
旧体制の指導者と、その軍隊を殲滅し、独裁をうち立てる。
天安門事件は鉄砲を水平に撃って多くの学生、市民を殺害し、治安を安定させた。
独裁権力に立ち向かう者は「反革命暴乱」であり、逮捕者は拷問、裁判はかたちだけ。そのあとは「労働改造所」という地獄のような刑務所に送られ、過酷な重労働。
釈放されても公安がつきまとい、まともな職場もなく、友人らは離れ、浮浪の人生が待っている。
げんに「中国民主党k」主席だった王丙章博士は、ベトナムから広西省へ潜入したところを囮捜査にひっかかって拘束され、無期徒刑、面会に行った兄妹らは、博士が著しい拷問のために正常な会話も出来なかったと証言している。
香港警察の弾圧のやりかたは、この中国共産党のミニチュアで、学生、市民を警棒で打ち据え、催涙弾もゴム弾も水平うち。放水に使われる「水」も強い毒性を持つ。この放水車の化学材料が「ドイツ製であり、ドイツは輸出を規制してほしい」と訪独してフンボルト大学で講演した黄之峰は記者団に語っている。
香港警察には中国からの応援部隊、それも特殊部隊が混入しているとみられ、あげくにピストル携行なのだ。九月までの段階で、ピストルの発車は二回確認されているが、いずれも威嚇射撃だった。
10月1日からは北京の国慶節と軍事パレードに併せ、武装が強化されていた。
警察は「あくまでも(発砲した警官の行為は)適切な措置だった」と正当防衛を主張し、発砲した警官の氏名などは明かさなかった。
2日夜から、抗議の群れは中国銀行など、中国系企業への襲撃となって、とりわけ親中企業のスターバックス数店が破壊された。
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革命と共産主義。香港の自爆攻撃。内戦型第三次世界大戦。
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