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明治日本と朝鮮の関係 3月5日(水)
前回よりの続きです。
今回も朝鮮史の流れの中で、なぜ韓国は「呪われた国」になってしまったかを検証していきます。
1392李成桂の裏切りによって出来た李朝は1910年まで518年間にも及びま
した。その間、権力者の暴虐は凄惨を極め、民衆の苦しみは想像を絶するも
のでした。李朝の500年にもわたる忌まわしい歴史が朝鮮族の精神を歪め、
俗に言われている日本人の理解を超えた「煩の民族」を作り上げたのです。
朝鮮は中国式の中央集権制をこの狭い国土で中国以上に徹底させたため、世
界に例を見ない硬直した官僚国家体制を作りあげました。そして驚くべき事
に李氏朝鮮は貨幣を持たなかった。貨幣の無い国家は知的文明が育ちにくい
と考えるのは私の偏見だろうか?
貨幣経済(商品経済)を持たなかったという国が存在したとは、原始社会で
はあるまいし世界史に例がないのではないでしょうか。
そして1860年前後の李氏朝鮮はとっくに経済的に破産し、軍事力もほとん
どなく、政権は分裂と内紛に明け暮れ、崩壊寸前でした。
清からの朝鮮の独立と近代化を日本は願っていました。しかし朝鮮は中華
主義にこり固まっていて、日本は自分より劣位の蛮族以外なにものでもない
との態度で日本の意見に耳をかしませんでした。それでいて清國に対しては
伝統的な臣下の礼をとりつづけ、欧米列強がひたひたと迫っているアジアの
情勢をまるで感じていません。
しかし既にロシアは南下をつづけて朝鮮国境まで領土を広げてきました。
もし朝鮮がロシアに領有されるか、列強に分割されれば、日本の国土防衛は
ほとんど不可能になります。
ちなみに明治維新は1868年です。明治日本は自衛のために朝鮮の清からの
独立と近代化を願って手を貸しましたが、朝鮮はいつまでたっても目が覚め
ません。自国さえ維持できない清に朝鮮を牛耳ったままにさせ、放置して
おけば朝鮮はロシアのものになるか、欧米諸国の草刈り場になるだけです。
そうなれば次は日本が危ない、ロシアは南下を続けて朝鮮国境にまで領土を
広げてきている。そしてウラジオストックに拠点をおくロシアは1885年、
朝鮮から海軍基地として永興湾の提供を受けようとしていました。この行為
に日本は仰天し激怒します。
それまで李氏朝鮮は清國に臣下の礼をとりつづけ、日本からの助言を拒否し
清國への属国状態の維持を堅持しようとしていたはずなのに、強大なロシア
が迫ってくるとヘナヘナとロシアににじり寄る姿勢をみせます。
ことここに至れば、日本は武力を持ってでもカギをこじあけ、朝鮮を独立さ
せ近代化の必要を悟らしめねばならない。
あの時代は、日本海の対岸と東シナ海沿岸の大部分と日本列島の北と南に広
がる主要な島々がことごとく列強の手に陥るのを見て、日本は列強の相互牽
制の隙をついて、同じ土俵で生きる以外に自衛の道はなかった。
ここにいたれば日本は朝鮮から清國の勢力を一掃し、朝鮮を独立国にするた
めの戦争を決意しました。これが日清戦争です。
いいか悪いかの話ではない、明治日本は戦いを恐れて座視すべきだったろ
うか?明治日本の選んだ道以外にいったいどんな道が有ったというので
しょうか。
日本軍約24万人に対して清軍約63万人、欧米列強の見守る中で、大国清に
挑戦する日本の自衛の孤独な戦いでした。列強は日本の敗北を予想していた
が、わずか8ヶ月で大勝しました。日清戦争に勝利した日本は下関条約を
清と結び、朝鮮の独立を認めさせます。
日清戦争は世界の人々に、日本の文明が老廃国中国よりも高く欧米から見て
アジアにはもう一つの中心があることを分からしめました。それまでは中国
よりも文明程度において低いと、欧米から侮られ、後れた国家と見られてい
たのです。
それでは日本と朝鮮を比べて進歩を決定づけた大きな違いとは何なのか?
同時代の徳川300年と李朝500年を比べればその答えは自ずと見えてきます。
つまり朝鮮には西洋や日本を発展に導いた封建制度がなかった。李朝の実情
は封建制度成立以前の極めて幼稚な社会で、自主的に近代的発展が望めるな
どまったく不可能でした。
江戸時代の封建制度では上下の身分が階層的に固定されていて、法を重んじ
る法治社会で、法と法との間の道徳感がよく守られ、規律正しい社会を
作っていました。このような安定した社会が続くことによって経済活動が
発展し、絢爛たる町人文化を開花させたのです。
このように商品経済が発展した江戸時代を通じて、近代資本主義への萌芽が
準備されていったように思われます。
ところが朝鮮には何故か封建制度が育たなかった。李朝では500年間血みど
ろの骨肉の争いが絶えず,そのつど、政策の継続性が断ち切られ、法を無視
し、勝ったものが権力を振るい、暴虐の限りを尽くした。
この歪みきった社会の中で民衆は搾取と収奪の対象にしかされませんでした。
このような環境のもとでは人は生きて行くことだけで精一杯で、日本のよう
に法と道徳に守られた公共の精神が育つはずもなかった。
骨の隋まで腐りきっていた李氏朝鮮では、人間としての道徳や、豊かな庶民
の文化が育つ素地がほとんどありませんでした。
日清戦争は中華中心思想に毒されていた東アジアに風穴をあけました。中華
中心の秩序に服属していれば安全という昔からの惰性の中で千年間も閉じこ
もっていた朝鮮は日本の圧倒的な勝利を目にして、日本がすでにいちだんと
他のアジア諸国より文明的にしのいでいることに衝撃をうけます。
欧米列強は、いがいにも日本の勝利に喝采し、日本に対する彼らの特権を
あいついで放棄しました。朝鮮は初めて日本によって、千年属国から解放さ
れ、独立国となったのです。
続きは次回にて
明治日本と朝鮮の関係 3月5日(水)
前回よりの続きです。
今回も朝鮮史の流れの中で、なぜ韓国は「呪われた国」になってしまったかを検証していきます。
1392李成桂の裏切りによって出来た李朝は1910年まで518年間にも及びま
した。その間、権力者の暴虐は凄惨を極め、民衆の苦しみは想像を絶するも
のでした。李朝の500年にもわたる忌まわしい歴史が朝鮮族の精神を歪め、
俗に言われている日本人の理解を超えた「煩の民族」を作り上げたのです。
朝鮮は中国式の中央集権制をこの狭い国土で中国以上に徹底させたため、世
界に例を見ない硬直した官僚国家体制を作りあげました。そして驚くべき事
に李氏朝鮮は貨幣を持たなかった。貨幣の無い国家は知的文明が育ちにくい
と考えるのは私の偏見だろうか?
貨幣経済(商品経済)を持たなかったという国が存在したとは、原始社会で
はあるまいし世界史に例がないのではないでしょうか。
そして1860年前後の李氏朝鮮はとっくに経済的に破産し、軍事力もほとん
どなく、政権は分裂と内紛に明け暮れ、崩壊寸前でした。
清からの朝鮮の独立と近代化を日本は願っていました。しかし朝鮮は中華
主義にこり固まっていて、日本は自分より劣位の蛮族以外なにものでもない
との態度で日本の意見に耳をかしませんでした。それでいて清國に対しては
伝統的な臣下の礼をとりつづけ、欧米列強がひたひたと迫っているアジアの
情勢をまるで感じていません。
しかし既にロシアは南下をつづけて朝鮮国境まで領土を広げてきました。
もし朝鮮がロシアに領有されるか、列強に分割されれば、日本の国土防衛は
ほとんど不可能になります。
ちなみに明治維新は1868年です。明治日本は自衛のために朝鮮の清からの
独立と近代化を願って手を貸しましたが、朝鮮はいつまでたっても目が覚め
ません。自国さえ維持できない清に朝鮮を牛耳ったままにさせ、放置して
おけば朝鮮はロシアのものになるか、欧米諸国の草刈り場になるだけです。
そうなれば次は日本が危ない、ロシアは南下を続けて朝鮮国境にまで領土を
広げてきている。そしてウラジオストックに拠点をおくロシアは1885年、
朝鮮から海軍基地として永興湾の提供を受けようとしていました。この行為
に日本は仰天し激怒します。
それまで李氏朝鮮は清國に臣下の礼をとりつづけ、日本からの助言を拒否し
清國への属国状態の維持を堅持しようとしていたはずなのに、強大なロシア
が迫ってくるとヘナヘナとロシアににじり寄る姿勢をみせます。
ことここに至れば、日本は武力を持ってでもカギをこじあけ、朝鮮を独立さ
せ近代化の必要を悟らしめねばならない。
あの時代は、日本海の対岸と東シナ海沿岸の大部分と日本列島の北と南に広
がる主要な島々がことごとく列強の手に陥るのを見て、日本は列強の相互牽
制の隙をついて、同じ土俵で生きる以外に自衛の道はなかった。
ここにいたれば日本は朝鮮から清國の勢力を一掃し、朝鮮を独立国にするた
めの戦争を決意しました。これが日清戦争です。
いいか悪いかの話ではない、明治日本は戦いを恐れて座視すべきだったろ
うか?明治日本の選んだ道以外にいったいどんな道が有ったというので
しょうか。
日本軍約24万人に対して清軍約63万人、欧米列強の見守る中で、大国清に
挑戦する日本の自衛の孤独な戦いでした。列強は日本の敗北を予想していた
が、わずか8ヶ月で大勝しました。日清戦争に勝利した日本は下関条約を
清と結び、朝鮮の独立を認めさせます。
日清戦争は世界の人々に、日本の文明が老廃国中国よりも高く欧米から見て
アジアにはもう一つの中心があることを分からしめました。それまでは中国
よりも文明程度において低いと、欧米から侮られ、後れた国家と見られてい
たのです。
それでは日本と朝鮮を比べて進歩を決定づけた大きな違いとは何なのか?
同時代の徳川300年と李朝500年を比べればその答えは自ずと見えてきます。
つまり朝鮮には西洋や日本を発展に導いた封建制度がなかった。李朝の実情
は封建制度成立以前の極めて幼稚な社会で、自主的に近代的発展が望めるな
どまったく不可能でした。
江戸時代の封建制度では上下の身分が階層的に固定されていて、法を重んじ
る法治社会で、法と法との間の道徳感がよく守られ、規律正しい社会を
作っていました。このような安定した社会が続くことによって経済活動が
発展し、絢爛たる町人文化を開花させたのです。
このように商品経済が発展した江戸時代を通じて、近代資本主義への萌芽が
準備されていったように思われます。
ところが朝鮮には何故か封建制度が育たなかった。李朝では500年間血みど
ろの骨肉の争いが絶えず,そのつど、政策の継続性が断ち切られ、法を無視
し、勝ったものが権力を振るい、暴虐の限りを尽くした。
この歪みきった社会の中で民衆は搾取と収奪の対象にしかされませんでした。
このような環境のもとでは人は生きて行くことだけで精一杯で、日本のよう
に法と道徳に守られた公共の精神が育つはずもなかった。
骨の隋まで腐りきっていた李氏朝鮮では、人間としての道徳や、豊かな庶民
の文化が育つ素地がほとんどありませんでした。
日清戦争は中華中心思想に毒されていた東アジアに風穴をあけました。中華
中心の秩序に服属していれば安全という昔からの惰性の中で千年間も閉じこ
もっていた朝鮮は日本の圧倒的な勝利を目にして、日本がすでにいちだんと
他のアジア諸国より文明的にしのいでいることに衝撃をうけます。
欧米列強は、いがいにも日本の勝利に喝采し、日本に対する彼らの特権を
あいついで放棄しました。朝鮮は初めて日本によって、千年属国から解放さ
れ、独立国となったのです。
続きは次回にて