http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1326.html からの転写
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号外記事の見出しを見ると、震災後の混乱の中で、在日朝鮮人たちが屋根から屋根へ放火したり、略奪、暴行、婦人凌辱等、悪さの限りを尽くしていたことがわかります。
さらに在日朝鮮人たちは、爆弾まで使って放火、略奪を繰り返し、あげく、軍隊によって鎮圧された、とある。
そして当時の政府は、公式発表として「不逞な朝鮮人については、三々五々群を為して放火を遂行、また未遂の事実があるけれど、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあるので、国民のみなさんは、恐れないでください」というステートメントを通達として出しています。
また、大阪毎日新聞では「警視庁、不逞鮮人暴動を沈静化」するだけでなく、「不逞ではない朝鮮人」保護のため、警視庁が「取締りは完全に遂行せよ」と急告通達を出している。
警察には、繰り返し、多数の不逞朝鮮人による事件通報がはいりました。
一方、不逞在日朝鮮人たちによって身内を殺され、家を焼かれ、財物を奪われ、女子供を強姦された多くの日本人たちは、青年団を中心に自警団を編成し、朝鮮人たちの暴行に備えました。
政府は「不逞鮮人では無い鮮人」の保護を閣議決定し、彼らを各所に収容を指示します。
警察では、警視総監の赤池濃氏が、「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。
戒厳令というのは、いっさいの法の執行を停止して、すべてを「軍の管制下におく」というものです。
これを受けて内務省警保局長後藤文夫が、各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電しています。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。
既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」
更に警視庁からも戒厳司令部宛に
「朝鮮人の中の不逞の挙について、放火その他凶暴なる行為に出る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。
この際これら朝鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし」
本来、震災の直後にあっては、互いに助け合って、被災者の救助にあたったり、火災の延焼を防ぐため、みんなで力を合わせたり、あるいは怪我人を介抱し、生き残った老人、婦女、子供たちの安全を図り、みんなで協力して食料の確保や情報ルートの確保しなければなりません。
生き残った日本人が、そうして互いに助け合おうとしているのを、朝鮮人達は助け合うどころか、逆に暴徒と化して日本人を襲い、食料を奪い、暴行を働き、あるいは人殺しをし、婦女を強姦したのです。
被災地の多くの日本人は、暴徒と化した朝鮮人を恐れました。
だから若者たちを中心に、自然発生的な自警団も生まれた。
街の安全を確保するために、各所に自警団が関所を設けたりもしています。
その関所では、朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として追い払いました。
なかには方言を話す地方出身の日本内地人や聾唖者が、こうして追い払われたというケースもありました。
不幸な出来事だと思います。
一般的にみて、自警団が設けた関所では、ガギグゲゴの発音ができない者は、「ここを通るな!」とやったろうし、集団でそこを強行突破しようとする者があれば、当然、そこでもみ合いの喧嘩が起こったということは容易に想像がつきます。
日頃おとなしい日本人が、そこまで追いつめられていたということです。
当然、そこまで追いつめられたのには、理由があった、ということです。
横浜の鶴見警察では、署長の大川常吉氏が、朝鮮人約300名を保護しました。
これを知った地元の自警団約1000人が、朝鮮人たちを差し出せ、と警察にやってきます。
それまでに彼らの身内等がひどい目に遭わされていたのです。
署長の大川氏は、
「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。
そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と自警団の者たちを追い返しています。
さらに大川所長は、「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したりもしました。
こうして署長は、朝鮮人たちを守っています。
日頃、おとなしく従順な日本人が、1000人も集まって警察に団交に行ったという事実は、注目に値します。
決して全ての朝鮮人が、というわけではないでしょうが、一部の朝鮮人たちが日本人の家屋や商店、婦女子を襲い、地元の日本人たちが相当に腹を立てていたという事実が、ここに象徴されている、ということです。
軍隊も同様に、多くの朝鮮人を保護しました。
また警察は、朝鮮人・中国人などを襲撃した日本人を逮捕しています。
殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。
注意しなければならないのは、先に暴虐の限りを尽くして暴れ回ったのは、朝鮮人たちだった、ということです。
大正12年からはるかに時代が下って、関東大震災からやがて30年が経ち、ひとびとの記憶から朝鮮人の暴行の記憶が薄れはじめた昭和28年のことです。
この関東大震災における朝鮮人暴徒事件に関して、ふたたび問題が再燃します。
関東大震災のとき、朝鮮人達がいわれなく6000人殺された、というのです。
戦後、日本にいた朝鮮人達は、GHQによって準戦傷民族の地位を与えられました。
そして朝鮮戦争の勃発によって、大量の朝鮮人達が日本に来日した。
そこへ、戦前逮捕されていた共産主義者たちが牢屋から出てきて、日本人が関東大震災時に、朝鮮人6000人を殺害したと、いい加減なデマを流しはじめたのです。
6000人という数字は、いきなり降ってわいた数字です。
何の根拠もありません。
それをいうなら、彼ら朝鮮人によって、どれだけの日本人が殺害されたのかを、まず知るべきです。
一説によれば、関東大震災は、震災そのものによる死亡者よりも、その後の人災によるものが20倍の被害を発生させているといいます。
その20倍というものが、彼ら朝鮮人によるものだというのなら、朝鮮人による日本人被害者は、13万人ということになります。
冒頭に、関東大震災の死者、行方不明14万人と書きました。
けれど、震災による直接の被害者は、おそらく数千名であったろうと言われています。
要するに13万人を超える死者、行方不明者は、震災の二次災害によって亡くなられた。
その二次災害というのは、火災、略奪、暴行、強盗、強姦、殺人です。
朝鮮人たちは、自分たちこそが被害者であると言います。
日本人は、差別主義の悪逆非道者であるというわけです。
けれど事実は、大震災の発生を奇貨として、不逞朝鮮人達が無抵抗の日本人を相手に、略奪、暴行、強姦、殺人の限りを尽くし、甚大な被害を発生させたというのが、関東大震災の被害です。
これに対する対抗措置として、自然発生的に街の自警団ができあがり、暴徒と化した朝鮮人達から普通の市民を守ろうとしたわけです。
要するに、朝鮮人達が、ふつうに、被災した日本人とともに、互いに助け合い、被災者の救助や街の復興に普通に協力していれば、そもそも何の問題も発生していなかったし、死者、行方不明者もわずか数千名で済んだ筈だったのです。
現に、朝鮮人以外の外国人に関しては、まったくこうした暴徒問題は発生していない。
たとえば当時、首都圏には多くの台湾人がいたけれど、台湾人が震災の際に暴徒と化したなどという話は、ただの1件も発生していません。
にも関わらず、自分たちの不逞行為は棚にあげ、あたかも朝鮮人こそ一方的な被害者であると言い出し、それも、事件の記憶が薄れ、実体験した人たちがだいぶ減ってきた昭和28年ごろ・・・事件から30年も経ってから、なんの根拠もなく6000人が「殺された」と主張しているのが在日朝鮮人たちです。
非常に卑しい行為です。
見下げ果てた行為というのは、このことをいいます。
おもしろいもので、人間というもんは、過酷な極限状態に置かれたとき、それぞれの本性というか、得意なパターンの行動をとるものです。
小さな例では、たとえば同一人の泥棒は、必ず毎回同じ手口をとる。
喧嘩になったとき、大声を出す人は、必ず大声を出して怒鳴るし、黙って手を出す人は、やはり毎回モノも言わずに手を出します。
泣き出す人は先に泣くし、必死に説得しようとする人は、まずしゃべる。
同様に民族的にも、極限状態に置かれた民族は、たとえば
ドイツ人は激しく自己主張します。
ロシア人は、大量殺戮する。暴飲、強姦をします。
支那人は、集団となると悪趣味な残虐行為を働く。
朝鮮人は、火病を起こして暴徒と化し、集団で女性が死ぬまで強姦し、死んだ後は屍姦する。
日本人はというと、過酷な情況になればなるほど、我が身を犠牲にしてでも、周囲を助けようとします。
旧日本軍の軍人さんたちがそうでした。
近くは東日本大震災や、阪神大震災、新潟地震等でも、同様の行動パターンでした。
むしろ自分よりまわりの人を助けようとして、多くの人が命を落としたりする。
それが日本人です。
教育とかそういう次元の問題ではなく、これは民族的DNAのはたらきである、としかいいようがない。
こうした傾向は、すべての○○人に当てはまるというわけでなく、当然、個体差(個人による行動パターンの違い)はあります。
朝鮮人でも、立派な人はたくさんいるし、現に関東大震災の際でも、不逞でない朝鮮人達はいた。そうした人たちは、日本の警察や軍隊が、当時、しっかりと保護しています。全部が全部ではない。
日本人にも、おかしな奴はいる。しっかりした人もいる。
けれど、それでもなお、民族的傾向性というものは、厳然として存在する。
そしてその「傾向性」は、時を超えて、なお繰り返すのです。
いま、在日朝鮮人たちは、「自分たちは差別されてきた」といいます。
しかし彼らに対して私たち日本人が行ってきたのは、「差別」などでは決してありません。
彼らがしてきた行為から、私たちの父祖たちは彼らを「警戒」してきたのです。
ここまで書いてしまったので、あと2つ、お話しを続けます。
大東亜戦争中の話です。
日本軍は、支那事変が始まる以前から、軍属として多くの朝鮮人を雇用していました。
支那事変勃発後からは、朝鮮人にも志願制度が敷かれ、朝鮮人が正規兵として日本軍に参加した。
その頃の話です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「鍼灸医の体験した日本軍の香港占領」
著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993年
九龍が占領された翌朝、農夫の姿に変装した二人の女性が、有名な作家侶倫(原名李林風)の家の門を叩いた。
頭巾をとると、鑽石山(ダイヤモンド・ヒル)の某映画製作所に避難していた女優であることが分かった。
彼女たちは恐怖に引きつった表情で、日本軍の馬丁に暴行された昨夜の出来事を打明けた。
当時の鑽石山はまだ一面の荒れ山で、未完成の映画制作所があるだけだった。製作所の経営者は避難してきた彼の会社の管轄下の職員や俳優をかくまっていた。
最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。
ところがある日、突然5〜6人の「獣兵」が現れ、麻雀をしていた4人の女優を輪姦したという。
前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。
当時朝鮮は亡国の運命を辿り、台湾も日本の植民地であった。
日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。
日本軍が占領下にあった香港では、アヘン販売や売春市場は朝鮮人たちが取り仕切っていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
要するにこれが事実です。
時代がずっと下って、昭和40(1965)年から朝鮮人が参戦したベトナム戦争での出来事です。
このときも彼らは同じことを繰り返しています。
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「私の村は地獄になった」
ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号
韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた
ロン・モロー(バンコク支局長)
韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965〜73年。
歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。
彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。
近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。
残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。
次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。
トアイはとっさに頭を隠した。
硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。
防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。
トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。
「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。
「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。
67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。
韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。
チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。
「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。
67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。
大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。
虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。
チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
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過去の歴史を虚心に振り返ったとき、明らかな事実として、また現代を生きる私たちへの重要な教訓を教えてくれます。
つまり、歴史は繰り返す・・・からです。
関東大震災では、在日朝鮮人が多くの問題をひき起しました。
それでも気をつけなければならないのは、それは「在日朝鮮人」に限ったことではなく、大陸系の人種に共通の特徴でもある、ということです。
日本人の日本人的価値観やDNAは、あくまで世界の60分の1のものでしかない。
世界は、日本とは異なるのです。
そしてもうひとつ。
関東大震災で問題を起こしたのは、「不逞在日朝鮮人」です。
そうでない朝鮮人もたくさんいた、というのことも忘れてはなりません。
終戦直後、朝鮮半島を経由して日本人が帰国するとき、日本人に対して居丈高になって酷い仕打ちをした朝鮮人もいました。
その一方で、必死になって日本人を助けようとしてくれた数多くの朝鮮人もいたのです。
だからこそ、多くの日本人が日本に帰ってくることができた。
現代においても、在日朝鮮人が日本国内で悪いことをする人もいます。
その一方で、日本人以上に日本的価値観を学び、一生懸命生きている多くの在日朝鮮人もいます。
人はみんな裸で生まれ、死ねば仏様、罪を憎んで人を憎まず、差別をせず、誰に対しても親切する、というのは、日本人の日本人的美徳です。
そうした美徳を、備え持った、あるいは日本人以上に一生懸命に学び、誠実に生きようとする人もいる。
終戦直後、日本がまだ貧しかった頃、朝鮮戦争が勃発しました。
北朝鮮が、南朝鮮に攻め入り、南朝鮮の李承晩は、同国人を片端から虐殺しながら、南下してついには釜山まで追いつめられました。
このとき戦った金錫源将軍は、日本の陸士を卒業し、並の日本人以上に勇敢に戦った。
一方、多くの朝鮮人が済州島を経由して、難民として日本に上陸しました。
裸一貫で、何も持たずに日本に上陸してきた朝鮮人たちを、当時の日本人たちは、自分たちが貧しいのにも関わらず、彼らの生活や食事、風呂や衣類まで誠実に面倒をみています。
そういう正しい歴史を、相互に学ぶことこそが、私は両国民にとって、もっとも必要なことなのではないかと思っています。
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号外記事の見出しを見ると、震災後の混乱の中で、在日朝鮮人たちが屋根から屋根へ放火したり、略奪、暴行、婦人凌辱等、悪さの限りを尽くしていたことがわかります。
さらに在日朝鮮人たちは、爆弾まで使って放火、略奪を繰り返し、あげく、軍隊によって鎮圧された、とある。
そして当時の政府は、公式発表として「不逞な朝鮮人については、三々五々群を為して放火を遂行、また未遂の事実があるけれど、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあるので、国民のみなさんは、恐れないでください」というステートメントを通達として出しています。
また、大阪毎日新聞では「警視庁、不逞鮮人暴動を沈静化」するだけでなく、「不逞ではない朝鮮人」保護のため、警視庁が「取締りは完全に遂行せよ」と急告通達を出している。
警察には、繰り返し、多数の不逞朝鮮人による事件通報がはいりました。
一方、不逞在日朝鮮人たちによって身内を殺され、家を焼かれ、財物を奪われ、女子供を強姦された多くの日本人たちは、青年団を中心に自警団を編成し、朝鮮人たちの暴行に備えました。
政府は「不逞鮮人では無い鮮人」の保護を閣議決定し、彼らを各所に収容を指示します。
警察では、警視総監の赤池濃氏が、「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。
戒厳令というのは、いっさいの法の執行を停止して、すべてを「軍の管制下におく」というものです。
これを受けて内務省警保局長後藤文夫が、各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電しています。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。
既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」
更に警視庁からも戒厳司令部宛に
「朝鮮人の中の不逞の挙について、放火その他凶暴なる行為に出る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。
この際これら朝鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし」
本来、震災の直後にあっては、互いに助け合って、被災者の救助にあたったり、火災の延焼を防ぐため、みんなで力を合わせたり、あるいは怪我人を介抱し、生き残った老人、婦女、子供たちの安全を図り、みんなで協力して食料の確保や情報ルートの確保しなければなりません。
生き残った日本人が、そうして互いに助け合おうとしているのを、朝鮮人達は助け合うどころか、逆に暴徒と化して日本人を襲い、食料を奪い、暴行を働き、あるいは人殺しをし、婦女を強姦したのです。
被災地の多くの日本人は、暴徒と化した朝鮮人を恐れました。
だから若者たちを中心に、自然発生的な自警団も生まれた。
街の安全を確保するために、各所に自警団が関所を設けたりもしています。
その関所では、朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として追い払いました。
なかには方言を話す地方出身の日本内地人や聾唖者が、こうして追い払われたというケースもありました。
不幸な出来事だと思います。
一般的にみて、自警団が設けた関所では、ガギグゲゴの発音ができない者は、「ここを通るな!」とやったろうし、集団でそこを強行突破しようとする者があれば、当然、そこでもみ合いの喧嘩が起こったということは容易に想像がつきます。
日頃おとなしい日本人が、そこまで追いつめられていたということです。
当然、そこまで追いつめられたのには、理由があった、ということです。
横浜の鶴見警察では、署長の大川常吉氏が、朝鮮人約300名を保護しました。
これを知った地元の自警団約1000人が、朝鮮人たちを差し出せ、と警察にやってきます。
それまでに彼らの身内等がひどい目に遭わされていたのです。
署長の大川氏は、
「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。
そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と自警団の者たちを追い返しています。
さらに大川所長は、「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したりもしました。
こうして署長は、朝鮮人たちを守っています。
日頃、おとなしく従順な日本人が、1000人も集まって警察に団交に行ったという事実は、注目に値します。
決して全ての朝鮮人が、というわけではないでしょうが、一部の朝鮮人たちが日本人の家屋や商店、婦女子を襲い、地元の日本人たちが相当に腹を立てていたという事実が、ここに象徴されている、ということです。
軍隊も同様に、多くの朝鮮人を保護しました。
また警察は、朝鮮人・中国人などを襲撃した日本人を逮捕しています。
殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。
注意しなければならないのは、先に暴虐の限りを尽くして暴れ回ったのは、朝鮮人たちだった、ということです。
大正12年からはるかに時代が下って、関東大震災からやがて30年が経ち、ひとびとの記憶から朝鮮人の暴行の記憶が薄れはじめた昭和28年のことです。
この関東大震災における朝鮮人暴徒事件に関して、ふたたび問題が再燃します。
関東大震災のとき、朝鮮人達がいわれなく6000人殺された、というのです。
戦後、日本にいた朝鮮人達は、GHQによって準戦傷民族の地位を与えられました。
そして朝鮮戦争の勃発によって、大量の朝鮮人達が日本に来日した。
そこへ、戦前逮捕されていた共産主義者たちが牢屋から出てきて、日本人が関東大震災時に、朝鮮人6000人を殺害したと、いい加減なデマを流しはじめたのです。
6000人という数字は、いきなり降ってわいた数字です。
何の根拠もありません。
それをいうなら、彼ら朝鮮人によって、どれだけの日本人が殺害されたのかを、まず知るべきです。
一説によれば、関東大震災は、震災そのものによる死亡者よりも、その後の人災によるものが20倍の被害を発生させているといいます。
その20倍というものが、彼ら朝鮮人によるものだというのなら、朝鮮人による日本人被害者は、13万人ということになります。
冒頭に、関東大震災の死者、行方不明14万人と書きました。
けれど、震災による直接の被害者は、おそらく数千名であったろうと言われています。
要するに13万人を超える死者、行方不明者は、震災の二次災害によって亡くなられた。
その二次災害というのは、火災、略奪、暴行、強盗、強姦、殺人です。
朝鮮人たちは、自分たちこそが被害者であると言います。
日本人は、差別主義の悪逆非道者であるというわけです。
けれど事実は、大震災の発生を奇貨として、不逞朝鮮人達が無抵抗の日本人を相手に、略奪、暴行、強姦、殺人の限りを尽くし、甚大な被害を発生させたというのが、関東大震災の被害です。
これに対する対抗措置として、自然発生的に街の自警団ができあがり、暴徒と化した朝鮮人達から普通の市民を守ろうとしたわけです。
要するに、朝鮮人達が、ふつうに、被災した日本人とともに、互いに助け合い、被災者の救助や街の復興に普通に協力していれば、そもそも何の問題も発生していなかったし、死者、行方不明者もわずか数千名で済んだ筈だったのです。
現に、朝鮮人以外の外国人に関しては、まったくこうした暴徒問題は発生していない。
たとえば当時、首都圏には多くの台湾人がいたけれど、台湾人が震災の際に暴徒と化したなどという話は、ただの1件も発生していません。
にも関わらず、自分たちの不逞行為は棚にあげ、あたかも朝鮮人こそ一方的な被害者であると言い出し、それも、事件の記憶が薄れ、実体験した人たちがだいぶ減ってきた昭和28年ごろ・・・事件から30年も経ってから、なんの根拠もなく6000人が「殺された」と主張しているのが在日朝鮮人たちです。
非常に卑しい行為です。
見下げ果てた行為というのは、このことをいいます。
おもしろいもので、人間というもんは、過酷な極限状態に置かれたとき、それぞれの本性というか、得意なパターンの行動をとるものです。
小さな例では、たとえば同一人の泥棒は、必ず毎回同じ手口をとる。
喧嘩になったとき、大声を出す人は、必ず大声を出して怒鳴るし、黙って手を出す人は、やはり毎回モノも言わずに手を出します。
泣き出す人は先に泣くし、必死に説得しようとする人は、まずしゃべる。
同様に民族的にも、極限状態に置かれた民族は、たとえば
ドイツ人は激しく自己主張します。
ロシア人は、大量殺戮する。暴飲、強姦をします。
支那人は、集団となると悪趣味な残虐行為を働く。
朝鮮人は、火病を起こして暴徒と化し、集団で女性が死ぬまで強姦し、死んだ後は屍姦する。
日本人はというと、過酷な情況になればなるほど、我が身を犠牲にしてでも、周囲を助けようとします。
旧日本軍の軍人さんたちがそうでした。
近くは東日本大震災や、阪神大震災、新潟地震等でも、同様の行動パターンでした。
むしろ自分よりまわりの人を助けようとして、多くの人が命を落としたりする。
それが日本人です。
教育とかそういう次元の問題ではなく、これは民族的DNAのはたらきである、としかいいようがない。
こうした傾向は、すべての○○人に当てはまるというわけでなく、当然、個体差(個人による行動パターンの違い)はあります。
朝鮮人でも、立派な人はたくさんいるし、現に関東大震災の際でも、不逞でない朝鮮人達はいた。そうした人たちは、日本の警察や軍隊が、当時、しっかりと保護しています。全部が全部ではない。
日本人にも、おかしな奴はいる。しっかりした人もいる。
けれど、それでもなお、民族的傾向性というものは、厳然として存在する。
そしてその「傾向性」は、時を超えて、なお繰り返すのです。
いま、在日朝鮮人たちは、「自分たちは差別されてきた」といいます。
しかし彼らに対して私たち日本人が行ってきたのは、「差別」などでは決してありません。
彼らがしてきた行為から、私たちの父祖たちは彼らを「警戒」してきたのです。
ここまで書いてしまったので、あと2つ、お話しを続けます。
大東亜戦争中の話です。
日本軍は、支那事変が始まる以前から、軍属として多くの朝鮮人を雇用していました。
支那事変勃発後からは、朝鮮人にも志願制度が敷かれ、朝鮮人が正規兵として日本軍に参加した。
その頃の話です。
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「鍼灸医の体験した日本軍の香港占領」
著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993年
九龍が占領された翌朝、農夫の姿に変装した二人の女性が、有名な作家侶倫(原名李林風)の家の門を叩いた。
頭巾をとると、鑽石山(ダイヤモンド・ヒル)の某映画製作所に避難していた女優であることが分かった。
彼女たちは恐怖に引きつった表情で、日本軍の馬丁に暴行された昨夜の出来事を打明けた。
当時の鑽石山はまだ一面の荒れ山で、未完成の映画制作所があるだけだった。製作所の経営者は避難してきた彼の会社の管轄下の職員や俳優をかくまっていた。
最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。
ところがある日、突然5〜6人の「獣兵」が現れ、麻雀をしていた4人の女優を輪姦したという。
前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。
当時朝鮮は亡国の運命を辿り、台湾も日本の植民地であった。
日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。
日本軍が占領下にあった香港では、アヘン販売や売春市場は朝鮮人たちが取り仕切っていた。
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要するにこれが事実です。
時代がずっと下って、昭和40(1965)年から朝鮮人が参戦したベトナム戦争での出来事です。
このときも彼らは同じことを繰り返しています。
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「私の村は地獄になった」
ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号
韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた
ロン・モロー(バンコク支局長)
韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965〜73年。
歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。
彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。
近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。
残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。
次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。
トアイはとっさに頭を隠した。
硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。
防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。
トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。
「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。
「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。
67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。
韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。
チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。
「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。
67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。
大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。
虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。
チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
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過去の歴史を虚心に振り返ったとき、明らかな事実として、また現代を生きる私たちへの重要な教訓を教えてくれます。
つまり、歴史は繰り返す・・・からです。
関東大震災では、在日朝鮮人が多くの問題をひき起しました。
それでも気をつけなければならないのは、それは「在日朝鮮人」に限ったことではなく、大陸系の人種に共通の特徴でもある、ということです。
日本人の日本人的価値観やDNAは、あくまで世界の60分の1のものでしかない。
世界は、日本とは異なるのです。
そしてもうひとつ。
関東大震災で問題を起こしたのは、「不逞在日朝鮮人」です。
そうでない朝鮮人もたくさんいた、というのことも忘れてはなりません。
終戦直後、朝鮮半島を経由して日本人が帰国するとき、日本人に対して居丈高になって酷い仕打ちをした朝鮮人もいました。
その一方で、必死になって日本人を助けようとしてくれた数多くの朝鮮人もいたのです。
だからこそ、多くの日本人が日本に帰ってくることができた。
現代においても、在日朝鮮人が日本国内で悪いことをする人もいます。
その一方で、日本人以上に日本的価値観を学び、一生懸命生きている多くの在日朝鮮人もいます。
人はみんな裸で生まれ、死ねば仏様、罪を憎んで人を憎まず、差別をせず、誰に対しても親切する、というのは、日本人の日本人的美徳です。
そうした美徳を、備え持った、あるいは日本人以上に一生懸命に学び、誠実に生きようとする人もいる。
終戦直後、日本がまだ貧しかった頃、朝鮮戦争が勃発しました。
北朝鮮が、南朝鮮に攻め入り、南朝鮮の李承晩は、同国人を片端から虐殺しながら、南下してついには釜山まで追いつめられました。
このとき戦った金錫源将軍は、日本の陸士を卒業し、並の日本人以上に勇敢に戦った。
一方、多くの朝鮮人が済州島を経由して、難民として日本に上陸しました。
裸一貫で、何も持たずに日本に上陸してきた朝鮮人たちを、当時の日本人たちは、自分たちが貧しいのにも関わらず、彼らの生活や食事、風呂や衣類まで誠実に面倒をみています。
そういう正しい歴史を、相互に学ぶことこそが、私は両国民にとって、もっとも必要なことなのではないかと思っています。
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